抽象精神

以前、

数年にわたって父親を介護して

最後まで看取った友人が、

その父親の口癖を

教えてくれたことがある。


それは

「まだ経験したことのない道を

 歩いているのでよくわからん」

という

あまりに正直な言葉であった。 


が、わたしには

その言葉がまさに人生そのものを

言い表しているように思えた。 


わたしたちは人生を

「わかっているつもり」で

生きているだけなのではないかと。  


わかるのは、

自らの精神性が二十歳前後の頃と

それほど

変わっていないということ。


自身情けなくもあるけれど、

どうしても

「そこ」に寄っていってしまう。 


 近年は「そこ」が

ますます

近くなってきたように思う。


この宇宙に人間の営み以外があり

人間が今のところ把握できる

諸々の時間経過と歴史があり


人間の有史以降は虚偽と洗脳があり

その流れにより現代の文明があり

個々の思い込みによる真善美があり


変遷する意味と価値感があり

現前に突きつけられる関係性があり

どうでもいい情報に

杞憂する日常があり


間違いなく淘汰される者を

想定したうえでの未来があり


何もわからないままに

消えるということの死があり

と謎が続く。


言葉とは

思考とは

何かを(善にしろ悪にしろ)

是とする

エネルギー(結晶化)から生じる。


生命(身体)という形象化も

この是から生じる。


この宇宙に生じることが

すべて

是とするエネルギーから

生じるならば

人間はどうして非を作り出すのか。  


それに対する

答えも用意されている。


それは

葛藤であり 摩擦であり

戦いであり 悩みであり

苦悶である。


それは単に

エネルギーの活性をめざす

宇宙の計らいだとして


そういう形で

宇宙の膨張論に

重ね合わせることもできるが


それさえも

人間の思考そのものが捉えた

是にほかならない。


非さえも是に包んでしまう。


人類は思考とともに

踊り狂っているだけだとも言える。


でも、

言葉のない世界は

苦しくはないかもしれないが

とても寂しい気もするし


「なぜ?」という

問いから生まれたものが

広い意味で文化だとしても


ひとりひとりの内的文化は違うので

答えが

ひとつであるということはない。


ならば、

わたしたちは自らの文化を

どう踊り狂うのか。


それは、

思考だけではなく

生命(身体)という形象化に

どう落とし前をつけるのか?

ということでもある。


こんな風に

わたしの抽象精神は

背中合わせに具象世界に

張り付いているのである。


からだはうす

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