舞族の『神殿舞踏』
心と意識の在りようを示しながら
人間生命の顕現たる身体。
それは
わたしたちの意識の
届かぬ領域の
暗示的形態ともいえる。
わたしたちが
未知なる計らいによっ
て創造されたものならば、
人間中心主義という
宿命的呪縛網の中における
狡知の競い合いほど
間抜けなものはあるまい。
未知なるものとの遭遇を創造として
理解したものだけが、
つまり、
わたしたち自身が
日々
創造され続けている存在であることを
了解した者だけが未知への参入者となる。
『神殿舞踏』は、
わたしたちの創造意図をこえて、
内なる核細胞と外なる透明細胞が出会う
結界を紡いでいく作業としての供儀である。
自然界を含む
あらゆる外界を『神殿』と仰ぎ、
身体そのものが『神殿』であることを任じ、
さらに
わたしたちの個的生命体の内奥に隠れる
『神殿』を覗く。
この三位一体の構造こそ
『神殿舞踏』には相応しい。
『神殿舞踏』とは
まことに素朴な思念からはじまる。
それは、
・言葉にならない思い
・モノやお金に換えられない気持ち
を表す方法としての舞である。
それは、
感謝と畏れ敬う祈りの姿を
無心に問うものの熱である。
人は内なる在処に
言語以前の感性と
形になる前の像を
独自に表出しようとする衝動をもつ。
それは、
すでに意味と価値を
付与された既成の概念と
対立しながら、
或いは、
既成の概念に怯えながら
一途な願いの濁流となって
現実界に登場する。
一途な願いは、
ときに
絵画や彫刻となって像を結び、
ときには
音霊となって響き渡る。
そして、
骨と血と肉を携える生命流動の印は
舞となって時空に刻まれ、
記憶に沈んでいく・・・
そんなこんなの思いをもって
【舞族】は誕生した。
その踊りの向かう先は、
場(時空)と人との出会いが何を生み出すのか、
その一点に絞られる。
よって、
単に観客に見せるための芸ではない。
それは、
もしもわたしたちに
魂というものがあるとするなら
その息づかいを
その気配を
その香りを
一端でもよいから巡り合った場と人々と
共感したいという願いである。
そして、
2003年8月9日の台風襲来とともに、
その願いは
『神殿舞踏』胎動の姿として浮かび上がった。
わたしたちは、
表面的には
どんなに安易に見えようと
各人の無意識領域においては
命がけの人生を
誰もが歩んでいることを知り
生命の綾なす紋様に驚嘆してきた。
わたしたちは
「誰も気づかないところで起こっていること」
へのまなざしをもって
生と死の臭いのするところ
煩悩と格闘した歴史の念を堆積した土地
自然や季節の泰然さや狂乱の中で
踊ることを志す。
それこそが、
まさに
私たち自身の内側にあるはずの光景だから。
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